JR駅からハイク 昭和の建物散歩

3月23日、JR東主催の「駅からハイク/ 昭和の建物散歩」

亀田の三九の市が開いている日なので、最初は市場通りへ。

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参加者37名、「タウンウオークかめだ」からガイド参加者は8名。


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国の登録有形文化財になっている「石本家」や水道タンクなどを巡った。




文化財ではないが、いつか姿を消す運命にある昭和の建物。

これは昭和25年頃に亀田町が建てた町営住宅。

3年前には8軒ほど残っていたが、今日見た限りでは4軒しかなかった。

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北山池公園で早咲の桜の下を歩き、

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最後は「越の寒梅」の醸造元、石本酒造の工場社屋前。

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石本社長自ら、寒梅のPRと社屋内の庭の説明をしてくださった。


寒梅の酒粕で作られた濃厚な甘酒もふるまわれました。

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新潟市の都市景観賞に選ばれた竹垣の前で最後の挨拶。

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参加者は寒梅さんのおもてなしに大満足。

亀田駅の近くにあるSAKEギャラリー・ハセトモで寒梅関連のお土産を

たくさんお買い上げいただきました。

9時に亀田駅をスタートし、約4Kmのハイキングコースを3時間かけて

12時過ぎに戻ってきました。


記:Ray次郎


2~3月の活動予定

「タウンウオークかめだ」の2~3月活動予定

 江南区産業振興課では、恒例になっている「梅の陣」で

「まち歩きガイドツアー」を企画しています。

区からの要請に応じて、タウンウオークかめだでガイドを引き受けることにしました。

梅の陣の趣旨:

「梅畑散策のほか、亀田の商店街や船戸山の路地裏を散策しながら、

梅の花を観賞しつつ、梅の味を感じてもらう。」

 要項は以下の通りです。

(1) 3月13日~4月10日までの約1か月を「梅の陣」として

梅畑を自由に散策してもらうよう、折り込みチラシと市報にいがたで案内します。

(2) 下記の期日にまち歩きガイドツアーを企画して参加者を募集します。

(当会では、下調べと駅からハイクも予定されていますので、時系列で記載します。)
 
① 下調べ 2月13日(土)
亀田駅9:00集合 区役所課員+タウンウオークかめだ
   下調べは2月実施なので注意

② 梅の陣 3月18日(金)
    亀田駅9:30受付    参加募集10名+ガイド2~5名

③ 梅の陣 3月20日(日)    〃       〃

④ 梅の陣 3月22日(火)   〃       〃

⑤ 駅ハイ 3月23日(水)
亀田駅8:30受付 駅からハイク 募集25名+ガイド5~10名

 亀田駅⇒市場通り⇒石本邸⇒町営住宅
 ⇒水道タンク⇒北山池⇒稲葉商店街⇒亀田駅

⑥ 梅の陣 3月25日(金)
亀田駅9:30受付  参加募集10名+ガイド2~3名

⑦ 梅の陣 3月29日(火)  〃       〃

:梅の陣の「まち歩きガイドツアー」のコース

 9:00亀田駅⇒市場通り(ねこい)⇒諏訪神社⇒古泉菓子店⇒船戸山
 ⇒梅の里通り⇒村山健次商店⇒沢海屋菓子店⇒円満寺
 ⇒12:00あじ倉(昼食代は各自負担¥2,000)

(3) 「梅の陣のメインイベント」開催

 3月下旬の1日ないし2日を梅の陣のメイン日とし、自由に梅畑を散策してもらう。

当日はまち歩きガイドツアーは実施しない。

区役所駐車場で地元物産の販売所を設置、

梅ジュースの無料試飲などを行います。

昨年の実績で1,000名以上の参加者があった。

* 上記2月13日~3月29日の日程のうちで、

参加していただける方は都合の良い日を事務局・斎藤までお知らせ願います。

江南区役所予定:
10月23日~11月23日までの3と9の日、7日間で「亀田三・九マルシェ」を企画します。

コースは3月23日実施の駅からハイクと同じ内容になります。

このガイドについても当会でサポートしたいと考えています。

記:Ray次郎

亀田~北山 まち歩き

12月13日(日) 「タウンウオークかめだ」では

来年3月に開催される「駅からハイク」の予行演習としてまち歩きを行った。

亀田駅を出発して、市場通りへ。

江戸時代1694年、本町通りに亀田六斎市が始まる。

裏町堀は荷物を栗の木川の船溜まりから小舟に乗せ換えて、

各商店の蔵に運んでいた。

戦後、自動車の通行量が増大し本町通りの市場は成り立たなくなった。

昭和32年、浦町堀を埋め立て、ここに移転した。

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三・九の市なので本日は開催日なのだが、市場は午前中で仕舞うので、

午後の3時ではだれもいない。


市場通りに面して、商家・石本邸がある。

この家は国の登録有形文化財になっている。

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三階にある望楼は亀田の街並みを眺め渡す、絶好の場所であったろう。

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参加メンバーの14名は旧役場跡に建てられたコミュニテイセンターを通り過ぎ、

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東町にある町営住宅へ。

昭和30年頃に建てられた住宅で、今は数戸しか残っていないが、

住んでおられる方もいる。

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次に向かったのは水道タンク。

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明治、大正と、コレラや腸チフスなどの疫病に悩まされていた亀田町は、

その原因の一つが飲料水の不良にあるとした。昭和8年いよいよ上水道工事がスタートした。

向山の砂丘のくぼ地に井戸を掘り地下水をくみ上げる。

必要な水の量は6万4千立法尺、湧き出る水の量はその倍、1億4千立法尺であった。

これを水道タンクにいったんくみ上げ、亀田町内全域に配水管で供給するという水道工事であった。

人口の増加と地下水の減少が相まって昭和31年には小阿賀野川からも取水したが、

平成14年までは現役の水道タンクであった。

亀田町教育委員会はこのタンクを国登録有形文化財に申請し、登録された。

昔から町内のどこからも眺められた「向山の水道タンク」として親しまれてきた

歴史的景観に寄与しているという登録の基準が重視されたものと思われる。


水道タンク



亀田町民にとっては、水道タンクとすぐ近くにある北山池とは対の景観となっている。

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今は湖岸が整備され北山池公園として、憩いの場になっている。

半世紀前はこの池の近くに向山とよばれる、小高い砂山があり、

冬になると子供たちはスキーを楽しむことができたし、


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夏には、ここ北山のオジ(弟)池で泳いだものだ。

さすがに、ここで泳ぐ子供の姿はなくなって、

今は全国的にも有名なヘラ鮒釣りのメッカになっている。

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コースの最後は石本酒造の工場と隣接した住居。

明治40年創業。濃厚甘口が主流であった酒造りの中にあって

終始端麗辛口のすっきりした味わいの酒を造り続けた。

昭和40年代に入り、雑誌「酒」の編集長であった佐々木久子が「越の寒梅」に着目し

「幻の酒」として紹介したのをきっかけに地酒ブームに火がつき、

寒梅を一躍全国のトップブランドに押し上げた。

寒梅はその後も生産高を増やさなかったので、

なかなか手に入らずまさに「幻の酒」として名を馳せ、

プレミヤをつけて販売された時期もあった。

現在では5年古酒焼酎、10年古酒焼酎以外の吟醸酒は容易に手に入る。




亀田駅長から工場見学を申し入れたが、衛生上の問題で残念ながら断られた。

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なので、めぐらされた竹垣と、アプローチの写真だけとなった。

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まち歩きは、これをもって終了。

当日は忘年会を引き続き開催したので、一行はカラオケに直行。

歩きが2時間、忘年会が3時間という長丁場の一日だった。



記:Ray次郎


まち歩きと忘年会のご案内

タウンウオークかめだ 会員様各位

 設立からまだ半年ですが、中間決算として、

まち歩きと忘年会を下記のように同日に開催します。

皆さま、ふるってご参加ください。

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日時:平成27年12月13日(日)

集合:午後3時・亀田駅自由通路

コース:亀田駅➡市場通り➡石本邸➡町営住宅➡水道タンク
     
     ➡稲葉通り➡北山池公園➡亀田駅


イメージ写真

    *4Km、2時間コース
     来年3月に開催する駅からハイクの予行演習になります。

忘年会開催:亀田駅前「やまよし」 午後5時より
        参加費、4,000円

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準備の都合がありますので、参加の可否をRay次郎のメールまで送信願います。

事務局・Ray次郎

  
      




亀田の俳句:中田みずほ Ⅰ

新潟市中央図書館“ほんぽーと”の2階特別展示室では「五人が語るふるさと」と題し

新潟にゆかりの深い五人の物故文学者を紹介している。

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坂口安吾、会津八一、吉屋信子、鷲尾雨工、そして中田みずほである。

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みずほ以外の四人は文学をその生業としている職業作家であるのに対し、

みずほは脳外科を専門とする医学者である。

新潟にあった医科専門学校が医科大学に変わるのを機に、

助教授として大正11年に赴任した。

東京帝国大学医科の教員教授の推薦を受けてのことであった。

赴任した二年後の大正13年、みずほに海外留学の辞令が下り、

一般外科学研修のため、およそ二年半にわたりドイツ、オーストリア、

フランスへ出張することになった。結婚後六年目のことであった。

幼い二児を抱えた妻を新潟の地に残していかねばならなかった。

この期間をのぞいて、みずほは約半世紀にわたって新潟市内の借家に住み続けた。

したがって生まれた土地ではないが、新潟が「ふるさと」には相違なく、

ほかの四人と並んで、その名を連ねても何の不思議もない。

特別展示室にあるみずほの棚に、

平成9年(1997年)発行の文芸春秋別冊7月号が置いてある。

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その雑誌に小説家・内海隆一郎が「静かに雪の降るは好き」と題して

中田みずほの評伝小説を掲載している。目次にある題名の右には

「日本で初めて脳腫瘍手術に成功、

日本の脳外科を世界の水準に押し上げた中田瑞穂の生き方。

彼のひたむきな人生を支えたものは、俳人としての写生の精神であった」の説明文がある。

180枚の大作であるが、貸出していないので「館内」でしか読めない。

ここではこの大作からRay次郎が抜粋したり、割愛したり、

また記述の順番を入れ替えたりして記事にまとめた。


・昭和28年4月24日 中田みずほは60歳を迎えた。

還暦を記念して「刈上」という句集を上梓した。

題名をこれにしたのは姓名が稲にまつわることに因んだ。

中の田の稲穂もこの辺でいよいよ刈り上げにしようか、という洒落らしい。

父親と長兄がともに54歳で亡くなっているので、

自分もあまり長生きはできまいと考えていたが、

その4日後、みずほは夜更けに軽い発作をおこした。

脳神経外科を専門とするみずほは、自分の身体の異変を

脳の血管障害とみずから診断した。

それから22年を経た昭和50年、みずほは82歳でその生涯を終えた。


・みずほは明治26年、山口県津和野市に、父、開業医の中田和居(よしおり)と

母ヒデの子四人(兄二人、姉一人)の末子として生まれた。本名は瑞穂。


同郷の人には森鴎外がいる。

東京帝国大学医学部の先輩にもあたる鴎外は医学者になり、

陸軍で軍医総監、医務局長になったが、一方で多くの文学作品を残した。

森鴎外


医学と文学を極めようとするその生き方はみずほの姿と重なるような気がする。



さて、父和居は明治37年、日露戦争が始まると間もなく津和野町長に選出された。

その父は明治40年に肝臓癌で亡くなった。父が亡くなった日、

二人の兄は東京の学校から駆け付ける途中で、

家には母と姉そしてみずほの三人だけだった。

父の遺体はその日のうちに解剖に処された。これは和居の生前からの遺志であった。

亡くなる前に自分の癌の状態を予想して図に示し、

死後かならず解剖して病根を確かめるようにと親しい医師たちに言い残していた。

母と姉は遠慮したので、みずほが遺族代表として解剖に立ち合った。

みずほ14歳のときである。肝臓はもちろん大腸、直腸、心臓まで遺体から切り出され、

そして縫い閉じられた。その一部始終をみずほは見ていた。

大正6年、東京帝国大学医学部を卒業、

以降外科教室の近藤次繁教授のもとで外科学を専攻し、

副手、助手、医局長を務めた。


大正9年、北村萋子(しげこ)と結婚する。彼女は中野で印刷工場を営む家の

長女でみずほは女学校に通う彼女の家庭教師として勉強を見ていた。

それが縁での恋愛結婚である。

萋子は二十歳になったばかりの才気活発な新妻であった。

大正10年、近藤教授の勧めで、新潟大学医科大学へ助教授として

赴任することが決まった。

大正11年2月、みずほと萋子は前年に生まれたばかりの長男紳一郎を

伴って新潟駅にたどり着いた。上野駅から長野まわりの信越線で、

雪景色


途中関山駅で大雪のため立ち往生、

さらに大雪に阻まれたため約五時間も遅れての到着であった。

新潟の町も深い雪におおわれていた。

その日から新潟におけるみずほの医学研究と中田家の生活が始まった。

昭和9年の晩春、みずほ41歳の時、妻萋子(しげこ)が35歳の若さで亡くなった。

結核性の痔疾が原因だった。亡くなる2年前から病床にあった萋子の看病と

幼い子供たち3人の世話をするため、

佐藤念腹の紹介で21歳になるとめのを雇っていた。

彼女はその後みずほの姉から引き取った老母の世話もし、

5年間「ねえや」と呼ばれて中田家で生活した。

みずほは亡き妻が病床にあった時に遺した

「とめのを後添いに迎えてほしい」という言葉に従って、

三回忌を過ぎた昭和12年、26歳のとめのを後妻に迎えた。

みずほ40歳からの10年間で家庭内はこのように揺れ動いたが、

仕事は絶頂期を迎えていた。

研究室


昭和11年には日本で初めて脳腫瘍の手術に成功し、

同じ年に文部省在外研究員として、

ふたたびアメリカとヨーロッパへ出張している。

帰国後は彼の行った脳腫瘍手術に注目が集まり、

方々の大学から脳外科の専門家たちが新潟医科大学を訪れ始めた。

当時の脳外科の世界を、

「昭和の名医15人 現代につなぐ医の心」 水野 肇著で読んでみると、

昭和の名医

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 「かつて日本の脳外科の世界では『新潟詣で』という言葉があった。

日本の医学は、東京大学医学部が中心で、権威はすべて、東大に集まっていた。

ところが脳外科だけは、中田瑞穂教授によって新潟で進歩発展させられたため、

脳外科を志す外科医は、まず新潟医大を訪ねて、

中田教授の手術を見学して教えを受けたところから始まった言葉である。

 しかし中田教授は、この言葉を嫌っていた。

『学者がお互いに勉強するのは当然のことだ』といっていた。

それでも『新潟詣で』は、医学会では厳然とした事実であった。

やはり新潟医大こそ、日本の脳外科の発祥の地というべきだろうし、

中田教授は『日本の脳外科の父』ということになるだろう。」

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その後のみずほの医学関係の略年譜は

昭和22年(54歳)東京帝大医学部から教授として赴任するよう要請があったが、
          研究ができないとして断った。
          
          「学問の 静かに雪の 降るは好き」 とホトトギスに発表したのは
          この年のことである。

          帝大の教授就任の要請を断り、この地、雪深い新潟で研究をするという
          静かだが一途な覚悟を感じさせる。         

          日本で初めての脳外科手術書、『脳手術』を南山堂より出版。

          日本で初めての脳手術の手引書としてバイブルとなった。

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昭和23年(55歳) 第48回日本外科学会総会が新潟で開催され、
           みずほは会長として講演をおこなう。

           その会期中に第1回日本脳外科研究会設立総会を開催。


昭和24年(56歳) 医学書「脳腫瘍」を刊行。


昭和25年(57歳) 脳神経外科研究に対して第3回新潟日報文化賞を受賞。

昭和30年(63歳) 新潟大学を定年退職し新潟大学名誉教授となる。

           同時に「新潟大学脳研究室」が設けられ初代室長となる。

新潟大学脳研究所
  左から二番目がみずほ

彼が書き記した何十冊にものぼる研究ノートは、今もこの研究室に保存されている。

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昭和33年(65歳) 永年の脳研究で紫綬褒章を受章。

昭和34年(66歳) 高浜虚子逝去。新潟大学脳研究施設長を退任。

昭和42年(74歳) 文化功労者に選ばれる。

            近年では長嶋茂雄や宮崎駿、樋口久子など幅広い分野から
            受賞者が選ばれているが、当時は専門分野を極めた学者や
            文化人が多く、受賞者数も10人前後と近年の半分であった。
            この年の前後で受賞したのは、東山魁夷、井伏鱒二、
            諸橋轍次など。

昭和43年(75歳) 日本学士院会員となる。




昭和50年4月、82歳になったみずほは新潟大学脳研究所の所長になっていた。

みずほは研究室の自室に、かっての教え子である脳研の教授・生田房弘を招き、

1通の封筒を手渡した。

「小生遺体解剖の際、脳、延髄を脛髄上部とともに取り出し、

推定の病巣を中心にお調べくださるようお願いしておきます。」

みずからの遺体の解剖を依頼したのである。

その年の8月18日、持病の胆石症から胆嚢炎に膵臓炎を併発し、

みずほは新潟市西大畑の自宅で、午後9時20分に息を引き取った。

そして生田は師の遺志に従ってみずほの解剖を行っている。

それは68年前にみずほの父・和居が処した死に様と同じであった。



そして生誕百年記念で津和野町旧邸に記念碑が、

津和野生誕地

「脳外科の父 中田瑞穂先生 生誕の地」 津和野

旧居


新潟大学医学部には句碑が建立された。

その句はもちろん「学問の 静かに雪の 降るは好き」である。

新潟大学句碑


みずほは西堀通り四番町の法音寺に今も静かに眠っている。



次回はみずほの俳句に焦点をあてて記事を書きます。


記:Ray次郎