曽野木のこと!!

はじめまして! タウンウォークかめだの事務局手伝い ベアです。

さてさて、タウンウォークかめだの活動拠点である、新潟市江南区には

曽野木という地域があります!(実は私は、出身そこなんですよね~…。)

亀田地域も見どころたくさんですが、曽野木地域も負けておりません!

そこで、ちょびっと曽野木の見どころご紹介!!


地図データ



そもそも曽野木って、どうやってついた名前やねん!?

ということから、ちょっとご説明を!(なんで関西弁やねん!!)

実は、曽野木とは「曽川(ソガワ)村」、「天野(アマノ)村」、「嘉木(カギ)村」の

三ヶ村が一緒になり出来た村で、それぞれの村から一文字づつとって

「曽野木村」と名付けられました。

すぐ横には信濃川が流れ、近くに鳥屋野潟もあることから

昔から稲作が中心の地域でした。

さて、そんな曽野木地域にもいろいろと地域のお宝がたくさん。

今回は、簡単ですがその中でも有名どころを1つご紹介!!



それは、「曽川切れ」と呼ばれる災害です。

大正6年(1917年)10月2日未明に起きた、新潟平野で起きた洪水の中では

最大規模と言われています。

当時は、信濃川の堤防が長さ約200m近くに渡り決壊し、亀田、横越地域をへて

遠くは、沼垂地域にまで被害を及ぼした大水害でした。

また、「曽川切れ」がキッカケとなり、停滞していた大河津分水の工事が

再開されたといわれています。

現在も、県道三条・小須戸線のわきに、「曽川切れ跡」

「曽川切れ記念碑」の碑が建っています。

そんな曽野木の見どころを、どんどんブログでもご紹介していきたいと思いますので

ぜひ皆さんも一度、曽野木を訪れてみて下さいませ~~!!

アッ! もちろん亀田もよろしくお願いしますネ!!



記:ベア


佐野学:街道をゆく

亀田郷土地改良区が発刊した「創立六十周年記念誌 水と土と農民」には

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最後の章で「亀田郷の原点ー佐野藤三郎とその時代ー」と題して

佐野が昭和30年、土地改良区の理事長に33歳の若さで就任してから、

平成6年に72歳で急逝するまでの彼の歩みと業績を描いている。

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(就任して間もない頃の佐野藤三郎。昭和32年5月1日、メーデー)




その最終章は以下の文章で終わっている。

「平成6年3月24日夜、東京銀座の丸の内ホテルで、土地改良事業に対する

佐野藤三郎理事長の多大な功績を表彰する農林水産大臣賞の

授与式典が挙行された。

受賞したのは大臣賞の中でも最高位のダイヤモンド賞である。

全国からお祝いに馳せ参じた土地改良関係者でホテル会場は埋め尽くされた。

祝賀の乾杯の嵐を佐野理事長は、満面の笑顔でうけ喜悦の絶頂にあった。

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(祝賀会での佐野藤三郎)


その後、式典閉会後の深夜、宿泊ホテルの階段下フロアで、意識不明の

重体状態となった理事長が発見され、駿河台の日大病院へと救急搬送された。

しかし翌3月25日午前11時15分、新潟市からかけつけた妻ミツイさんら

家族に見守られる中で、静かに息をひきとった。

死因は頭蓋骨折と外傷性くも膜下出血。享年72歳。まさに元気旺盛の中で、

忽然とその雄姿を消してしまった。」




生前の佐野藤三郎から話を聞いて本に著した小説家がいる。

昭和52年ころの司馬遼太郎。

佐野がでてくるのは「街道をゆく 9 信州佐久平のみち 潟のみち」。

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抜粋すると、

「亀田郷には、佐野藤三郎という大変な傑物がいるということは、

かねてからきいていた。土地の出身で、子供のころから湛水の田に入り、

くびまで浸かって田の仕事をしてきた、陸地化したこんにち、亀田郷そのものを

一種の非政治的コミューンのように仕立てあげ、

いろんな意味できわだった運営をしている人である」

司馬遼太郎は「芦沼」と題するモノクロの記録映画を観て、

「映画を見了えたとき、しばらくぼう然とした。食を得るというただ一つの目的のために

これほどはげしく肉体をいじめる作業というのは、さらにそれを生涯

くりかえすという生産は、世界でも類がないのではないか。」

という感想を書いている。

ちなみにこの記録映画は江南区資料館で常時上映されており、

司馬遼太郎の文章もスクリーン近くに掲載されている。


そしていよいよ司馬遼太郎が佐野藤三郎と対面する場面では、

「応接室に、理事長の佐野藤三郎氏が、勢いよく入ってきた。

白い開襟シャツに包んだ肩の肉がレスラーのように

ずしりと盛り上がっている。、、、、」

彼の話を聞いていくうちに、

「亀田郷土地改良区を運営しているこの佐野藤三郎という理事長さんは、

そういう複雑な現在の法社会や経済社会の現実の上に立って、

一種超然としながらも、それらの現実を操作して、日本国の行政のなかで

小さな『幕府』をつくっている。

ここでいう『幕府』とは、合法・非合法すれすれの実際的行政組織と

いうほどの意味である。」


このとき佐野藤三郎は50代半ば、レスラーのような身体で、

仕事も脂がのりきっていたのだろう。



「潟のみち」では幕末の洋学者佐久間象山が亀田から舟に乗って旅をした際に

残した漢詩を取り上げている。

象山の詩のなかで詠われている風景を、先ほど観た記録映画と重ねあわせて、

「その映画の中の荒涼とした沼と洲の光景を

象山がみて詩にしたかと思えるほどである」と書いた。

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(江戸期、亀田八景「乗落の帰帆」 現在の排水路公園の西端にかかる峰橋付近)


「潟のみち」編で司馬遼太郎が歩いたのは、亀田町⇒鳥屋野潟⇒木崎⇒

新津⇒五泉⇒村松町⇒上杉川であった。


さすが名を成した小説家、歴史家である司馬遼太郎が書いた亀田郷は、

行政や公共機関が発刊した歴史書にはない、歴史の拡がりと深い洞察力がある。

亀田郷の記述は文庫本で約50ページほどなので、

ぜひ、ご一読することをお勧めしたい。


記:Ray次郎

佐野学:亀田義塾「亀田郷をつくった人々」

亀田学会という会がある。亀田について、その歴史や文化を研究する会だ。

その会が亀田郷についての知識・哲学を学ぶ講座、

「亀田義塾」を開講している。(聴講費¥500円)

第4期にあたる今年のテーマは「亀田郷をつくった人々」

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各月のテーマは

5月、「ワールドカップ新潟大会における『おもてなし』
   講師:上山 寛 / 上山アトリエ代表

6月、「亀田郷の大地で農業と共に生きる」
   講師:杉本克己 / ㈱亀田郷農産物直売所 社長

7月、「佐野藤三郎学」
   講師:藤井大三郎 / 田園まちづくりアドバイザー

9月、「新発田藩の憂鬱と松ヶ崎開削」
   講師:本田典光 / 亀田学会水環境研究員

10月、「亀田郷の食文化」
    講師:古野間 久嗣 / 日本料理店「倉久」店主

11月、「亀田郷の防災」
    講師:斎藤 昭 / 江南区郷土資料館館長

12月、「亀田郷の伝統的建築物の保存と再生」
    講師:伊藤 純一 / 新潟まち遺産の会事務局

などなど、多彩である。



7月12日の亀田義塾に出席して講話を聴いた。

今回のテーマは亀田郷土地改良区の理事長として

多大な功績を残した佐野藤三郎について。


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講師は佐野藤三郎から永年まじかに教えを受けた、藤井大三郎さん。

亀田郷土地改良区で事務局長をされた方で、今は新潟市役所内の

都市政策部で「田園まちづくりアドバイザー」をされている。

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昨年も佐野学について語られたが、前回は彼の生い立ちから始まり、

芦沼とよばれた亀田郷の田んぼをいかに美田に変えたか、

新潟地震の被害や地盤沈下問題にどう立ち向かったか、

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(新潟地震後、新潟県農地部長に河川改修を要望する佐野藤三郎)

倒産寸前の土地改良区の財政をどう立ち直らせていったかなどであった。



今回は彼が晩年、力をそそいだバイオマス事業についての講話である。

再生可能資源を活用することにより、地球温暖化対策と未来農業の姿を目指す

事業の理念とその技術の紹介が、その主な内容であった。

バイオマス画像2

バイオマスを簡単にイラストで表すと上の絵になる。

佐野藤三郎は、減反対象の田んぼや耕作放棄地などに

サトウモロコシを植えて収穫したり、稲刈後の稲ワラを利用して、

バイオマス燃料として活用することを考えた。

実際、平成3年には大江山地区の田んぼにサトウモロコシを植え、

三菱重工業・広島工場で再生プラントを製作し、バイオマス生成の実験を行った。

10Rの田んぼから米であれば600kgしか収穫しないが、

サトウモロコシはその20倍の12トン収穫できる。

亀田郷で回収可能な稲ワラ3,000トンを再生利用すれば、

935キロリットルのメタノールを生成できることも分かった。



平成6年に佐野藤三郎は急逝するが、彼が取り組んだバイオマス事業は

新潟県が進めるバイオマス・ニイガタ ~21世紀のエネルギーは農地から~や

全国土地改良事業団体連合会が進める水・土・里ネット ~地域資源管理~

などの形で、現在でも脈々と引き継がれている。


記:Ray次郎

『タウンウオークかめだ』、設立総会と懇親会

前回6月28日に開かれた『タウンウオークかめだ』設立準備会での討議を踏まえ、

事務局で会の規約、年間活動計画を作成しました。

7月11日(土)亀田駅前❝粋や❞で設立総会を開催し、

いずれも全会一致で承認されました。

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で、さっそく懇親会に突入し(早っ!)、生ビールで乾杯!!


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初めての呑み会とは思えないような盛り上がりで、

飲んでしゃべって、笑って食べて、また飲んで、、

2時間半があっと言う間に過ぎました。


次回の活動はJR亀田主催の『江南区の隠れた名祭 勇壮の袋津祭りを歩く』で

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駅からハイキングをガイドデビューします。

記:Ray次郎

亀田の俳句:中田みずほ Ⅰ

新潟市中央図書館“ほんぽーと”の2階特別展示室では「五人が語るふるさと」と題し

新潟にゆかりの深い五人の物故文学者を紹介している。

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坂口安吾、会津八一、吉屋信子、鷲尾雨工、そして中田みずほである。

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みずほ以外の四人は文学をその生業としている職業作家であるのに対し、

みずほは脳外科を専門とする医学者である。

新潟にあった医科専門学校が医科大学に変わるのを機に、

助教授として大正11年に赴任した。

東京帝国大学医科の教員教授の推薦を受けてのことであった。

赴任した二年後の大正13年、みずほに海外留学の辞令が下り、

一般外科学研修のため、およそ二年半にわたりドイツ、オーストリア、

フランスへ出張することになった。結婚後六年目のことであった。

幼い二児を抱えた妻を新潟の地に残していかねばならなかった。

この期間をのぞいて、みずほは約半世紀にわたって新潟市内の借家に住み続けた。

したがって生まれた土地ではないが、新潟が「ふるさと」には相違なく、

ほかの四人と並んで、その名を連ねても何の不思議もない。

特別展示室にあるみずほの棚に、

平成9年(1997年)発行の文芸春秋別冊7月号が置いてある。

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その雑誌に小説家・内海隆一郎が「静かに雪の降るは好き」と題して

中田みずほの評伝小説を掲載している。目次にある題名の右には

「日本で初めて脳腫瘍手術に成功、

日本の脳外科を世界の水準に押し上げた中田瑞穂の生き方。

彼のひたむきな人生を支えたものは、俳人としての写生の精神であった」の説明文がある。

180枚の大作であるが、貸出していないので「館内」でしか読めない。

ここではこの大作からRay次郎が抜粋したり、割愛したり、

また記述の順番を入れ替えたりして記事にまとめた。


・昭和28年4月24日 中田みずほは60歳を迎えた。

還暦を記念して「刈上」という句集を上梓した。

題名をこれにしたのは姓名が稲にまつわることに因んだ。

中の田の稲穂もこの辺でいよいよ刈り上げにしようか、という洒落らしい。

父親と長兄がともに54歳で亡くなっているので、

自分もあまり長生きはできまいと考えていたが、

その4日後、みずほは夜更けに軽い発作をおこした。

脳神経外科を専門とするみずほは、自分の身体の異変を

脳の血管障害とみずから診断した。

それから22年を経た昭和50年、みずほは82歳でその生涯を終えた。


・みずほは明治26年、山口県津和野市に、父、開業医の中田和居(よしおり)と

母ヒデの子四人(兄二人、姉一人)の末子として生まれた。本名は瑞穂。


同郷の人には森鴎外がいる。

東京帝国大学医学部の先輩にもあたる鴎外は医学者になり、

陸軍で軍医総監、医務局長になったが、一方で多くの文学作品を残した。

森鴎外


医学と文学を極めようとするその生き方はみずほの姿と重なるような気がする。



さて、父和居は明治37年、日露戦争が始まると間もなく津和野町長に選出された。

その父は明治40年に肝臓癌で亡くなった。父が亡くなった日、

二人の兄は東京の学校から駆け付ける途中で、

家には母と姉そしてみずほの三人だけだった。

父の遺体はその日のうちに解剖に処された。これは和居の生前からの遺志であった。

亡くなる前に自分の癌の状態を予想して図に示し、

死後かならず解剖して病根を確かめるようにと親しい医師たちに言い残していた。

母と姉は遠慮したので、みずほが遺族代表として解剖に立ち合った。

みずほ14歳のときである。肝臓はもちろん大腸、直腸、心臓まで遺体から切り出され、

そして縫い閉じられた。その一部始終をみずほは見ていた。

大正6年、東京帝国大学医学部を卒業、

以降外科教室の近藤次繁教授のもとで外科学を専攻し、

副手、助手、医局長を務めた。


大正9年、北村萋子(しげこ)と結婚する。彼女は中野で印刷工場を営む家の

長女でみずほは女学校に通う彼女の家庭教師として勉強を見ていた。

それが縁での恋愛結婚である。

萋子は二十歳になったばかりの才気活発な新妻であった。

大正10年、近藤教授の勧めで、新潟大学医科大学へ助教授として

赴任することが決まった。

大正11年2月、みずほと萋子は前年に生まれたばかりの長男紳一郎を

伴って新潟駅にたどり着いた。上野駅から長野まわりの信越線で、

雪景色


途中関山駅で大雪のため立ち往生、

さらに大雪に阻まれたため約五時間も遅れての到着であった。

新潟の町も深い雪におおわれていた。

その日から新潟におけるみずほの医学研究と中田家の生活が始まった。

昭和9年の晩春、みずほ41歳の時、妻萋子(しげこ)が35歳の若さで亡くなった。

結核性の痔疾が原因だった。亡くなる2年前から病床にあった萋子の看病と

幼い子供たち3人の世話をするため、

佐藤念腹の紹介で21歳になるとめのを雇っていた。

彼女はその後みずほの姉から引き取った老母の世話もし、

5年間「ねえや」と呼ばれて中田家で生活した。

みずほは亡き妻が病床にあった時に遺した

「とめのを後添いに迎えてほしい」という言葉に従って、

三回忌を過ぎた昭和12年、26歳のとめのを後妻に迎えた。

みずほ40歳からの10年間で家庭内はこのように揺れ動いたが、

仕事は絶頂期を迎えていた。

研究室


昭和11年には日本で初めて脳腫瘍の手術に成功し、

同じ年に文部省在外研究員として、

ふたたびアメリカとヨーロッパへ出張している。

帰国後は彼の行った脳腫瘍手術に注目が集まり、

方々の大学から脳外科の専門家たちが新潟医科大学を訪れ始めた。

当時の脳外科の世界を、

「昭和の名医15人 現代につなぐ医の心」 水野 肇著で読んでみると、

昭和の名医

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 「かつて日本の脳外科の世界では『新潟詣で』という言葉があった。

日本の医学は、東京大学医学部が中心で、権威はすべて、東大に集まっていた。

ところが脳外科だけは、中田瑞穂教授によって新潟で進歩発展させられたため、

脳外科を志す外科医は、まず新潟医大を訪ねて、

中田教授の手術を見学して教えを受けたところから始まった言葉である。

 しかし中田教授は、この言葉を嫌っていた。

『学者がお互いに勉強するのは当然のことだ』といっていた。

それでも『新潟詣で』は、医学会では厳然とした事実であった。

やはり新潟医大こそ、日本の脳外科の発祥の地というべきだろうし、

中田教授は『日本の脳外科の父』ということになるだろう。」

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その後のみずほの医学関係の略年譜は

昭和22年(54歳)東京帝大医学部から教授として赴任するよう要請があったが、
          研究ができないとして断った。
          
          「学問の 静かに雪の 降るは好き」 とホトトギスに発表したのは
          この年のことである。

          帝大の教授就任の要請を断り、この地、雪深い新潟で研究をするという
          静かだが一途な覚悟を感じさせる。         

          日本で初めての脳外科手術書、『脳手術』を南山堂より出版。

          日本で初めての脳手術の手引書としてバイブルとなった。

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昭和23年(55歳) 第48回日本外科学会総会が新潟で開催され、
           みずほは会長として講演をおこなう。

           その会期中に第1回日本脳外科研究会設立総会を開催。


昭和24年(56歳) 医学書「脳腫瘍」を刊行。


昭和25年(57歳) 脳神経外科研究に対して第3回新潟日報文化賞を受賞。

昭和30年(63歳) 新潟大学を定年退職し新潟大学名誉教授となる。

           同時に「新潟大学脳研究室」が設けられ初代室長となる。

新潟大学脳研究所
  左から二番目がみずほ

彼が書き記した何十冊にものぼる研究ノートは、今もこの研究室に保存されている。

nakata note

昭和33年(65歳) 永年の脳研究で紫綬褒章を受章。

昭和34年(66歳) 高浜虚子逝去。新潟大学脳研究施設長を退任。

昭和42年(74歳) 文化功労者に選ばれる。

            近年では長嶋茂雄や宮崎駿、樋口久子など幅広い分野から
            受賞者が選ばれているが、当時は専門分野を極めた学者や
            文化人が多く、受賞者数も10人前後と近年の半分であった。
            この年の前後で受賞したのは、東山魁夷、井伏鱒二、
            諸橋轍次など。

昭和43年(75歳) 日本学士院会員となる。




昭和50年4月、82歳になったみずほは新潟大学脳研究所の所長になっていた。

みずほは研究室の自室に、かっての教え子である脳研の教授・生田房弘を招き、

1通の封筒を手渡した。

「小生遺体解剖の際、脳、延髄を脛髄上部とともに取り出し、

推定の病巣を中心にお調べくださるようお願いしておきます。」

みずからの遺体の解剖を依頼したのである。

その年の8月18日、持病の胆石症から胆嚢炎に膵臓炎を併発し、

みずほは新潟市西大畑の自宅で、午後9時20分に息を引き取った。

そして生田は師の遺志に従ってみずほの解剖を行っている。

それは68年前にみずほの父・和居が処した死に様と同じであった。



そして生誕百年記念で津和野町旧邸に記念碑が、

津和野生誕地

「脳外科の父 中田瑞穂先生 生誕の地」 津和野

旧居


新潟大学医学部には句碑が建立された。

その句はもちろん「学問の 静かに雪の 降るは好き」である。

新潟大学句碑


みずほは西堀通り四番町の法音寺に今も静かに眠っている。



次回はみずほの俳句に焦点をあてて記事を書きます。


記:Ray次郎

亀田の俳句:高浜虚子

高浜虚子1



高浜虚子は明治7年(1974年)正岡子規と同じ松山市に生まれた。

そして昭和34年(1959年)、85歳で天寿を全うした。

師事した子規が35歳で早世したのに対しまことに長寿であった。


虚子は大正2年(1913年)に初めて新潟市を訪れました。

没する2年前の昭和32年まで16回にわたり新潟県を来訪。

うち4回、亀田町に足を踏み入れている。

亀田に最後に来たは昭和23年なので、亀田在住の俳句人で虚子の姿を目の当たりにした方が

まだご存命なはずだが、私は知らない。



さて、話は明治26年(虚子19歳)に戻ります。

虚子は同郷で仲が良かった河東碧悟桐と一緒に京都の第三高等学校へ進学します。

河東碧梧桐


翌年学科改変により二人とも仙台の第二高等学校へ転入します。

当初医師をめざしていた虚子は数学ができなかったこともあり、文学に転向します。

子規に文学を学んでともに身をたてようと、碧悟桐と一緒に学校を辞めて上京し、

根岸にある子規庵の近くに下宿して浪人生活を始めます。

子規庵


子規の病状は悪化する一方で、発行していたホトトギスも虚子に編集を

手伝ってもらったりしていましたが、明治35年に子規が亡くなると、

後継者に指名された虚子はホトトギスの発行責任者となります。

ところがこの文芸雑誌(当時は小説が主で俳句は少々)の売れ行きが芳しくありません。

虚子は妻(なんと碧悟桐の元許嫁)と次々生まれる子供(最終的には54歳の時に7人目)を抱え、

ホトトギスの収入が落ち込む中、下痢を繰り返し、胃を痛め、ノイローゼに陥ります。

同じころイギリス帰りの漱石もノイローゼになっていましたが、子規庵には顔を出していました。

そこで虚子に「気晴らしになるから」と勧められ、漱石は小説を書き始めます。

漱石は当初この「猫伝」もしくは「吾輩は猫である」という題名を決めかねていた処女作を

長く書くつもりはなかったが、虚子に題名は「吾輩は猫である」とし、

さらに続きを書くよう強く勧められた。

明治38年にホトトギスに掲載されたこの小説は、漱石を文壇への道を開かせることになりました。

漱石


直筆原稿
    『吾輩は猫である』の直筆原稿

漱石は明治40年には東京帝国大学の教師を辞し、朝日新聞に入社します。

『虞美人草』、『三四郎』、『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『こころ』など彼の代表作となる

作品を次々と新聞紙上に掲載し、職業作家への道を歩き始めます。



一方、ホトトギスでは、明治39年に「坊ちゃん」が掲載され、発行部数を伸ばし

虚子はそれによりようやく一息つくことができました。

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その後ホトトギスは俳諧雑誌として全国に名を馳せ、虚子は子規の俳句を継承していきます。

すなわち子規が提唱した「写実主義」から「客観写生」と「花鳥諷詠」へと昇華させたのです。

これに共鳴した俳句詠みがつぎつぎと虚子に師事していきます。

俳壇即ホトトギスと言われるほどに勢力を伸ばし、虚子は俳壇に君臨する存在になっていきます。


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大正初期、東大医学部に在籍していた中田瑞穂は、水原秋桜子(医学部血清学)、

山口誓子(法学部)らと東大俳句会を興します。

ここで虚子に師事し、さかんにホトトギスに投句。

大正11年、みずほが新潟医科大学(脳外科)に赴任すると、

虚子との師弟関係が新潟に持ち込まれました。

同年、浜口今夜が内科の助教授として新潟医科大学に赴任。みずほから俳句を教わります。



遅れること昭和10年、ドイツ留学を終えた高野素十が新潟医科大学に

法医学の教授として加わり、ここに虚子門下の「越後の三羽ガラス」がそろいました。

高野素十は東大俳句会ではみずほの1年後輩にあたります。

高野素十

虚子が来県する際はこの3名がほとんど付き添っています。




最後に虚子が越後とかかわった編年史を、

亀田図書館が作成した資料からかいつまんで列挙します。


大正 2年(1913):新潟市を訪ね、弥彦をへて出雲崎の佐藤耐雪を訪ねる。

大正13年(1924):新潟医大で俳句会。終了後鍋茶屋で会食

            翌朝、信濃川畔漫歩、霧深し。

            「千二百七十歩なり露の橋」 

昭和13年(1938):新潟医大にて講演。翌日から二日間佐渡観光。

            初めて亀田へ来訪。佐藤暁華の家で休憩後、通心寺にて句会。



昭和14年(1939):青森からの帰路、瀬波温泉泊後に新潟へ。

            亀田北山の村木花圃にて句会。

昭和18年(1943): 浜口今夜、腎結石にて死去。

            虚子は「三羽居し春の鴉の一羽居ず」と追悼句を読む。

           
昭和21年(1946):中田みずほと高野素十が小諸にいた虚子を訪ね、

            虚子の体調がすぐれなかったのを見て、新潟へ連れ帰り、
  
            新潟医科大学田坂内科に10日間入院。

            同じ年、亀田の亀山其園居にて新潟玉藻会の句会。

昭和23年(1948):亀山其園居にて新潟玉藻会の句会。

昭和30年(1955):古町「かき正」にて句謡会。

かき正

かき正句会


昭和32年(1957):最後の来県。古町「かき正」にて句謡会。行形亭にて招宴。

行形亭


昭和34年(1959):虚子没。85歳


次回は中田みずほについて。

記:Ray次郎

亀田の俳句:虚子の句碑探し

高浜虚子が初めて新潟を訪れたのは大正2年(1913年)のことでした。

新潟から弥彦をへて、俳句の指導を頼まれていた出雲崎の佐藤耐雪を訪ねています。

来県の最後は昭和32年で、「行形亭」や「かき正」で句会を開きました。

これが亡くなる2年前であり、来県16回めにあたります。




大正12年9月1日に関東大震災が起きます。

この時虚子の自宅にあった「ホトトギス」のバックナンバーが全部焼けてしまいました。

前出の佐藤耐雪は出雲崎で本屋を営んでおり、「ホトトギス」を全巻所有していました。

耐雪はこれを全部虚子に寄付しました。

そのお礼にと大正13年に虚子は新潟を経由して出雲崎を訪れました。

新潟では新潟医科大学で句会を開き、鍋茶屋で芸妓の踊りを楽しみ、

翌朝信濃川にかかる万代橋を歩きました。

当時の万代橋はまだ木の橋でした。

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その時に

「千二百七十歩なり 露の橋」と句を詠みました。

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その句碑が万代橋のたもとにあるホテルオークラの前にあります。

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虚子が亀田の町を始めて訪れたのは昭和12年です。

その後も何回か石山、北山、亀田の地を訪れておりますが、

亀田の佐藤暁華の爐で句会を開いた際に

「夏爐の火 燃えてをらねば 淋しくて」の句を詠みました。

これが船戸山の円満寺に句碑として残されています。

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前回の記事でも紹介した句碑で、

中田みずほ、高野素十、濱口今夜の3氏の句が虚子の句に並んで刻まれています。

下の集合写真は昭和13年5月に亀田通心寺での句会の折に撮られたものです。

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中央に座っている和服姿が虚子、左となりに中田みずほと高野素十、

ひとりおいて前列左端が佐藤暁華です。

虚子の右隣は虚子の息子の年尾、その右の眼鏡をかけているのが浜口今夜。

そのほかの面々については佐藤暁華の記事で紹介します。


句碑の三つめは西堀3番町の端光寺の境内にあります。

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「三羽居し 春の烏の 一羽居ず」

越後における虚子の三羽カラスと言われたのは中田みずほ、高野素十、浜口今夜ですが、

この句はその一人浜口今夜の死を悼んで詠んだ弔句になっています。



最後に虚子の句碑を紹介すると、

それは白山神社に

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隣接する「遊神亭」という園庭のなかにありました。

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虚子の 「早苗取り 今我方に 笠丸し」という句を中央に

中田みずほ 「学問の 静かに 雪の降るが好き」

高野素十 「十三夜 明日という空 美しき」

の二句が左右に配されています。

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今回は虚子が残した近隣の句碑を探して紹介しましたが、

次回は人となりや人物史について調べてみたいと思います。


記:Ray次郎

亀田の俳句:正岡子規

「Ray次郎の正露丸放浪記」の筆者は、この会の事務局を担当しているRay次郎です。

筆者が同じなので、そちらの内容がこの会の主旨に沿う場合は、

こちらのブログにも併載したいと思います。




亀田は四国・松山ほどではないが、昔から俳句が盛んだ。

町内にある円満寺の境内に三名の俳句が一つの句碑に刻まれている。

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中田みずほ、高野素十(すじゅう)、浜口今夜の三名である。

三名とも東大医学部卒で新潟大学医学部の教授に赴任した先輩と後輩にあたる。

俳人としての彼らは高浜虚子を師として仰いでいる。


高浜虚子は近代俳句の立役者である正岡子規が発刊したホトトギスを継承し、

大正から昭和にかけて俳壇に君臨した人物だ。


この句碑を建立したのは亀田俳句の先駆者、佐藤暁華の子息である佐藤仁也さん。

そこで亀田俳句の歴史をその源流から

正岡子規⇒高浜虚子⇒中田みずほ⇒佐藤暁華とたどってみたい。



まずは正岡子規である。

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簡単に略歴を記すと、

慶応3年に伊予松山生まれ。明治17年東京大学予備門に入学した。

この時の同級生に塩原金之助(のちの夏目漱石)がいた。

ちなみに子規の年齢は明治の年数と合致するので、明治17年は子規17歳にあたる。

漱石とは落語の趣味が合い、一緒に寄席に通ったりして仲良くなり、生涯親交を深める。


明治22年、喀血が1週間続き、

「卯の花の散るまで鳴くか子規(ホトトギス)」と詠んだ。

血を吐くまで鳴き続けるホトトギスと自分を重ねあわせ、俳号を始めて子規とした。



明治23年、帝国大学哲学科に入学。(翌年国文科に転科)

この年の夏に松山へ帰省した際、東京帰りの学生仲間たちと松山の練兵場で

中学生が野球をしているのに出くわした。

子規は中学生からバットとボールを借り受け、学生仲間にノックした。

この時の中学生のひとりが高浜清(のちの虚子)であった。

虚子はこの始めての出会いを「子規居士と余」という本のなかで、

「その人は“失敬”と軽く言って余からその球を受け取った。

この“失敬”という一言は何となく人の心を惹きつける声であった」と書いている。



明治25年、学年試験に落第。試験のための勉強がいやになり、帝大を中退。

「新聞日本」社に入社し、俳句時評を担当した。



明治28年4月、日清戦争の従軍記者として旅順におもむく。

だが上陸した2日後に下関条約が調印されたため

同年5月、軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた。

その船中で喀血し重体に陥り、神戸病院に入院した。

この時、高浜虚子や川東碧悟桐に看病された。

8月に松山へ一時帰省。実家には戻らず、

松山中学に在職中だった夏目漱石の下宿に転がりこんでいる。

東京にもどった子規は今度は腰部脊ずい炎を患い、歩行が困難になる。


この時、子規28歳、35歳で亡くなるまでの8年間はほとんど病床で過ごすことになる。

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だが執筆活動はおとろえることなく、「新聞日本」に「俳人蕪村」を連載したり、

「歌よみに与ふる書」を発表し、以て短歌革新に着手した。

松山で生まれた雑誌「ホトトギス」を東京で発刊した。主宰は子規で虚子が編集を担当した。

また子規の病床を訪れた伊藤佐千夫、長塚節などらの後進の指導も続けた。



明治35年、5月から9月にかけて最後の随筆「病床六尺」を新聞に連載した。

このころは寝た切りで、しかも寝返りも打てないほどの苦痛をおしての

執筆であったため、一部は口述筆記であったとされる。

そして9月19日未明に死亡、35歳。短い生涯であったが日本の近代文学に大きな功績を残した。

戒名は子規居士。



亀田俳句と直接つながりをもつことはなかったが、彼の「写生」(写実)の精神は

子規の後継者である虚子を通じて「客観写生」として亀田に受け継がれている。


子規雑駁

・「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の名句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた

漱石作「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句である。


・子規は2002年に野球殿堂入りを果たしている。

彼の幼名は升(のぼる)、この名にちなんで「野球(のぼーる)」という雅号を用いたことがあった。

ベースボールを野球(やきゅう)と訳したのは後の中馬庚という人だが、漢字表記は子規が最初。

また子規は野球の外来語を日本語に訳した。

バッター=打者、ランナー=走者、フォアボール=四球、ストレート=直球といった具合だ。

野球が日本に入ってきたころは熱心な選手で、捕手をしていた。

野球に関係のある句や歌も多く、文学を通じて野球の普及に貢献した。

それやこれやが認められての殿堂入りであったようだ。


・辞世の句

「糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」

「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」

子規の忌日9月19日を糸瓜忌と言う。


・江戸期の文献を漁って忘れられていた俳人、与謝蕪村を発掘した。

「新聞日本」紙上の文芸欄で蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」の句と

芭蕉の「五月雨をあつめてはやし最上川」の句を対比し、

蕪村の写生の方に軍配を揚げ絶賛し、世間に衝撃を与えた。

これは司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも取り上げられている。


・司馬遼太郎原作のNHK大河ドラマ「坂の上の雲」は2003年に放映された。

主人公の秋山兄弟には阿部寛と本木雅弘が配役され、子規は香川照之がなった。

坊主頭と額の出具合など本人に似ていた。夏目漱石は小沢征悦。

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子規を知るための映像媒体としてお勧めしたい。

ほかの著作としては関川夏央が書いた「子規、最後の八年」が面白い。

読んではいませんが、高浜虚子が書いた「回想子規・漱石」という本もあります。

記:Ray次郎

2015年7月に立ち上げました

新潟県中蒲原郡亀田町は平成の大合併で、今は新潟市江南区に属しています。


新潟平野は4000年前に形成された砂州から成り立っています。

亀田町は日本海に向かって進んだ四列の砂丘の一番山側、

第一砂丘列に属します。多少小高くなった丘以外はすべて湖沼、もしくは暴れ川。

砂丘列


ようやく江戸時代に入って新田開発が進むと、

現在残っている村や町の名前が現れてきますが、

それでも信濃川と阿賀野川からの悪水に悩まされてきた歴史があります。

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つい数十年前は腰までつかって田植や稲刈りをしていた湿田は、

『芦沼』と呼ばれていました。

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先人たちと近代の人々はどのようにしてこの芦沼を美田に変え、

そこでどんな経済・文化をはぐくんできたのでしょうか?


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私たちはその旧亀田町とその近郊の歴史、文化、習俗を楽しみながら学び、

まち歩きガイドを養成し、ガイド実行部隊として活動していこうと考えています。

そして、このブログは会員相互の連絡を取り合うためと、

会の活動を一般の方に知ってもらうために開設しました。



今のところ会員は13名、会長はナベさん、事務局はRay次郎とベア君があたります。

原則各月に活動し、年会費は1,000円。

入会したい方、興味のある方は是非コメントをお寄せください。



Ray次郎